2014年04月03日

日本と韓国を決定的に分けたもの(5)

昨日のつづきです。
そして最終回です。


*        *        *


そして、いささか違った観点から日本人を讃えたのが、ロシア海軍軍人(中将)のバシリー=ミハイロビッチ=ゴローニンであろう。
文化8年(1811)、国後島で捕えられ松前に監禁されたゴローニンは、獄中、間宮林蔵に天文測量などを教える一方、獄舎の中で『日本幽囚記』を綴った。


「もしこの人々の多く、聡明犀利で、模倣力があり、忍耐強く、仕事好きで、何でもできる国民の上に、わが国のピョートル大帝ほどの王者が君臨したならば、日本の胎内に隠されている余力と富源をもってその王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家たらしめよう」


ゴローニンは文化10年、豪商・高田屋嘉兵衛を介して釈放されたが、それだけに、当時の鎖国日本の体制には辟易としたに違いない。
が、それでも日本人は体制が変革されれば、驚くべき進歩をとげ得る潜在能力を十二分にもっていることを認めていた。
明治維新後の日本を見るより半世紀以上もはるか前に、である。


また、先述のブリンクリと同時期に日本に滞在したラフカディオ=ハーンは、“武士道”を、「国力のつよさと信仰のつよさ」の根元であると断じ、“信・義・礼・節”などの“武士道の徳目”が、道徳の上ではキリスト教諸国民よりは、よりキリスト教的であるとも論じていた。(中略)


ところで、先には『武士道』の著者・新渡戸稲造について少し触れた。
明治の教育者として大きな足跡を残した新渡戸は、明治32年、アメリカ滞在中に、日本の道徳教育について質問されたのが端緒で、『武士道』を著したわけだが、まさしくこの時代までは、“日本および日本人”について問われれば、誰しもが“武士道”をもって説明したであろうことは疑いない


事実、日本および日本人は内外において武士道を口にし、実践して。欧米人たちに決して疑念を抱かすようなことははかった。
そしてそれは、明治から大正期を経て、第二次世界大戦頃まで、強弱の差はあれ、多くの米国人に信じられてきたことでもあったのである。(中略)


第二次世界大戦――までは、サムライ・ニッポンは明治以降も、気息奄奄ながらも生き続けていたといえよう。
第二次世界大戦に敗れ、半世紀近くを経た今、日本は経済大国として甦ったものの、昭和18年にポール=クローデルが愛し、滅ぶことのないよう願ったサムライ・ニッポンは、はたしてどうなったのであろう。


ただ一つだけ、明らかなことがある。
アメリカをはじめとする、海外から聞こえてくるジャパン・バッシングの声からは、かつてのセオドア=ルーズヴェルトやクローデルを期待すべくもなくなった、ということだ。


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終わりです。
なんともいえない気持ちになってしまいました・・・。


日本と朝鮮の未来を決定的に分けたものは、その思想、精神性、そして「人」でした。


『「武士道」は脈々と武士たちに受け継がれ、人格において清廉潔白、無欲恬淡の高風をもつ人格者を世に量産した。』


『“武士道”は、「国力のつよさと信仰のつよさ」の根元である』(ラフカディオ=ハーン)


『日本の文明は、道徳面においては、西洋文明より進んでいたのだ。』(フューストン=チェンバレン)


あの偉大な精神文化をもつ国なら、及ばずながら協力させていただこう。』(セオドア=ルーズベルト)


これほどの“礼節”と“自制心”を発揮できる国が他に一つとあるだろうか。』(ヘンリー=B=シュワルツ)


『明治までは“日本および日本人”について問われれば、誰しもが“武士道”をもって説明したであろうことは疑いない。』


『第二次世界大戦までは、サムライ・ニッポンは、気息奄奄ながらも生き続けていたといえよう。ポール=クローデルが愛し、滅ぶことのないよう願ったサムライ・ニッポンは、はたしてどうなったのであろう。』


日本の国力・外交力が衰えているのは、多くの人が知るところだと思います。
日本ほど急激に没落した国は無い、という識者の評論も見たことがあります。


なぜ日本は衰えたのか・・・・・・良い日本を残していきたいものですね。
それがもう失われているのであれば、、、再興させたいものですね・・。


最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました m(_ _)m


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2014年04月02日

日本と韓国を決定的に分けたもの(4)

昨日のつづきです。
そして明日で最終回です。


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日露戦争のクライマックスともいえる日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破し、一躍、世界にその名を謳われた連合艦隊司令長官・東郷平八郎――彼に関する著書『東郷の国』が、明治41年、アメリカで出版された。
日露戦争が終結してから、ほぼ3年後のことである。
その著者はヘンリー=B=シュワルツといった。


彼は日露戦争で旅順が陥落した直後、来日して福岡を旅行中であったが、たまたま博多駅で遭遇した「奇妙な光景」を次のように述べている。


駅の広場は黒山の如き人垣で埋まり、警察が多数出動して、群集に向かって厳重注意を呼びかけていた。「決して指さしたり、笑ってはいけない」

やがて列車が着き、人の行列が市中を行進し始めた。
行列はロシア軍の捕虜の一段であった。

“薄汚れてアホずらしたロシア兵ども”を迎えるには場違いな厳粛さに感動した。
生涯忘れられないシーンであった。


同じ状況下におかれた場合、これほどの“礼節”と“自制心”を発揮できる国が他に一つとあるだろうか。


またシュワルツは同書において、次のようにも語っている。


「明治の日本は、人為的に急ごしらえで作られた国ではない。それは砂上の楼閣でも、決してない。過去の古い歴史に根ざし、枝ぶりのみごとな、いわば杉の大木である。現代の日本人を理解するために、何はともあれ、まず、このことを理解する必要があるだろう」(中略)


サムライ・ニッポン――それは“義”を重んじ“名”を惜しむこと(恥を恐れるということ)を特性とし、代々子孫に伝えながら、徳川250年の中で培養された日本人独特の、一大思潮を象徴する語といってよいであろう


フランスの元駐日大使で、20世紀最高の詩人でもあったポール=クローデルは、かつて、


「私が決して滅ばされることのないようにと願う一つの民族がある。それは日本民族だ。あれほど興味ある太古からの文明をもっている民族は他に知らない。この最近の驚くべき発展も私には少しも不思議ではない。彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ。」


といっている。
第二次世界大戦の最中、昭和18年のことである。
クローデルが日本の敗色濃厚となった時局において、日本の古き佳きものの滅び去るのを、衷心から惜しみ歎いたのは、まさに“自律”と“自己犠牲”、そして“美しさ”を併せもつところの、日本の“武士道”に代表される伝統、文化であったといってよい


クローデルのみらなず、日本人の中に“精神文化としての武士道”をみて、讃美し、驚嘆し、羨望した外国人は、幕末維新以来、決して少なくなかった


安永4年(1775)、長崎の出島へやってきたスウェーデン人のカール=ペーター=ツンベルグ(植物学者)は、日本人を評して次のように述べている。


「気が利いていると同時に賢明であり、従順であると同時に正義を愛し、またある程度までは自由を主張する。活動的で質素で、経済的で誠実で、且つ勇気に富んでいる」


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明日につづきます。


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2014年04月01日

日本と韓国を決定的に分けたもの(3)

昨日のつづきになります。


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「武士道」は脈々と200年の鎖国下、支配階級であった武士たちに受け継がれ、人格において清廉潔白、無欲恬淡の高風をもつ、いわば、西郷隆盛のような人格者を世に量産した
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。(西郷南州遺訓)


明治の初期、ジョーンズ・ホプキンス大学に留学した、士族出の新渡戸稲造は、「日本人とは何か」とアメリカ人に問われ、とっさに答えられず、そのことを多年考え続けた結果、明治32年、37歳のおりに一つの答えを出した。
それが『Bushido The Soul of Japan』(武士道)の著作であった
。(中略)


ブリンクリ(日本公使館付武官補フランシス=ブリンクリ,幕末に日本に派遣されたイギリス海軍中尉)が日本での永住を決意し、並はずれた親日家になった動機が、日本の“武士道”のもつ魅力であったといわれている。


日本に上陸した直後、ブリンクリは偶然、武士同士の果たし合いを目撃した。
ブリンクリが強い衝撃を受けたのは、果たし合いそのものではなく、勝利した武士がたった今、己が倒した相手を自身の羽織で覆い、跪くと恭しく合唱した姿であった。「私は日本の心=武士道を学びたい」


ブリンクリはやがて軍籍から離れると、明治政府の招聘に応じて海軍省の御雇いとなり、のちに帝国工部大学(帝国大学の前身)で3年余の期間、教鞭をとって、明治14年、「ジャパン・ウィクリー・メール」(JWM・横浜の三大英字新聞)の主筆となった。


以降、ブリンクリは日本とその文化を広く世界に紹介するとともに、その支持・保全などに、日本人に勝るとも劣らぬ貢献をしたが、わけても明治37年、日露戦争が勃発するや、「ロンドン・タイムズ」の日本通信員となり、日本の対露戦を徹底して擁護した。


彼が日露戦中に展開した親日的論駁の数々は、のちにロシアのニコライ二世をして、
「『ロンドン・タイムズ』を一読して、初めて日本を深く研究しなかった露国開戦論者たちの、軽挙妄動を慨嘆する」
とまで言わしめた程であった。


━━管理人・注━━
日露戦争当時、軍事力、資金力、国力、あらゆる面において日本は圧倒的に不利な状況であり、日本政府自ら「勝ち目は無い」と明言するほど危機的状態でした。特に資金面、そして終戦工作・ロシア分断工作の観点から、世界各国への親日化プロパガンダは日露戦争における重大案件でした。ニコライ二世の発言から、この重大案件においてフランシス=ブリンクリのはたした役割は非常に大きいものであったと推測できます。
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ブリンクリは45年を日本で過ごし、大正元年10月28日、71歳をもって死去した。
日本はこのかけがえのない恩人に勲二等を贈ると、葬儀には貴族院議長・徳川家達(第十六代宗家)、外務大臣・内田康哉、海軍大臣・斉藤実(のち総理大臣)らを参列させ、多年にわたった日本への友情に深甚の意を表している。
「日本の武士道のままに生きたかった」
ブリンクリの終生の願望が、これであった。 


彼が最も熾烈な論戦を展開した日露戦争に、今一人日本に協力して、国運を賭したこの戦争を講和に導いたアメリカ人がいた。
アメリカ第26代大統領セオドア=ルーズヴェルトである。
彼の日本に関する理解の拠りどころも、ブリンクリと同様に、日本の“武士道”にあった。
ルーズヴェルトに極東の一小国日本を強烈に印象づけたのは、前述した新渡戸稲造の著書『武士道』であった。
講和斡旋の依頼に対し、ルーズヴェルトは言った。


「私は日本をよくは知らない。だが、『武士道』は本で読みよく知っている。あの偉大な精神文化をもつ国なら、及ばずながら協力させていただこう。


こうしてルーズヴェルトに、日本を救済しようとする強い意志が働いたからよかったものの、国力すでに尽きんとしていた日本のことである。
講和が不調に終われば、間違いなく国家滅亡への道を歩むことになっていたであろう。
明治日本は、武士道の国=サムライ・ニッポン=であったがゆえに救われたといえる。


━━管理人・注━━
セオドア=ルーズヴェルトは、山下義韶(柔道十段、講道館四天王の一人)から直接に柔道を学んだ柔道家であり帯も取得しています。山下義韶を合衆国海軍兵学校の教官に推挙したのもルーズヴェルトです。ルーズヴェルトが山下と出会った時、すでに大統領の地位に就いていました。国家元首であり、且つ、大柄で軍人でもあったルーズヴェルトが、小柄な東洋人に自らすすんで親しく教えを請うというのは意外というほかなく、日本文化に対して非常に理解がある人物であったということは、このような部分からも推測できます。
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フランシス=ブリンクリといい、セオドア=ルーズヴェルトにしてもそうだが、彼らをかくまで日本人にも増して日本を理解させ、比類なきまでの親日家たらしめたその端緒――“武士道”には「大局観」を習得する上でも、改めて注目する価値がありそうだ。


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2014年03月31日

日本と韓国を決定的に分けたもの(2)

昨日書いた記事、「日本と韓国を決定的に分けたもの」の続きを書こうと資料を読んでいたのですが、資料を読んでいるうちに、私がまとめる必要性を感じなくなり、また、私自身、資料を整理・記録しておきたいという思いに駆られましたので、引用文を記しておくことにします(^^;


以下は歴史学者の加来耕三さんが上梓した「時代に挑んだ男たち」という本の内容の一部になります。
あらためて読んでみて“懐かしさ”のような、哀愁のような、不思議な感慨につつまれましたので、その気持ちを忘れないように記録しておきます(何日か掛かるでしょう)。


ここから先は、ただの私の備忘録的なものになりますが、読むもよし、無視するもよし、考えるもよし・・・です。
日本人とは何か?」――古き良き、むかしのお話です。


――まぁ、記事にするということは多くの人に読んで欲しい内容ということなのですけどね(^^;――


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「批孔」運動というのが、つい最近まで隣国の中国であった。
中国人の心骨を二千年もの間むしばんできた、儒教を否定しようというもので、一時は孔子の墓標まで破壊され、子供の遊びにすら孔子の首を刎ねるものがあったという。


この話を聞いて、不思議に思った日本人は少なくなかった筈だ。
日本では徳川時代に根を下ろした儒教は、明治維新後、近代国家の成立ともうまく噛み合い、渋沢栄一の「右手に算盤、左手に論語」といったような、今日の経済大国・日本への強力なバックボーンともなった。


ところが、本来の儒教は厄介なことに、その本質において、同血の秩序を倫理化したものである以上、「私」が「公」に優先するという原理をもっていた。
そのため長い間、中国やその優秀な儒教門下生であった朝鮮半島では、産業や技術など国家繁栄必須のものが育たず、極言すればそうした担当者の親類縁者によって喰いものにされ、枝葉ばかりか根まで枯れてしまうことも少なくなかった


当事者が正義漢に燃えて、汚職や不正を峻拒すれば、「私」を優先させなかったことでその人は没落しかねず、信じられないことだが、保身のために汚職をするといったことが、儒教的正義として半ば公然と行われてきたのである。


日本は“本家”のこの混乱を、徳川時代、すでに払拭していた。
たとえば、幕末の長州藩――。
薄禄の藩士・玉木文之進は、非役のとき、畑を耕作しながら甥の吉田寅次郎(吉田松陰)を畔道に坐らせ、農耕の合い間に漢学を教えた。


そうしたある日のこと。朗読中の寅次郎の頬に、一匹のハエがとまった。
寅次郎が思わず手で頬を掻いたところ、文之進は激怒し、寅次郎が失神するほどに殴りつけ、折檻を加えた。


文之進はいう。聖賢の書を読む行為は「公」であり、頬を掻くのは「私」の行為だ、と。
「公」の仕事をするおりに、「私」を思うのは許されない。
それを厳しく知らしめ、忘れさせぬためにも、肉体的苦痛を与えたというのである。


文之進のこの考え方は、些か潔癖すぎるきらいはあったが、当時の日本――幕府にも諸藩にも、これに近い意識はあった。
その証拠に明治維新後、「富国強兵」「殖産興業」を急ぐ新興日本は、国家が管理して資本主義を育成したが、巨大な資本が投下される産業において、隣国に見られたような政府高官による悪辣な汚職や、寄ってたかっての食い荒らしはおこなわれなかった。


このあたりの事情を、明治期、日本に滞在していたラフカディオ=ハーンは、友人のフューストン=チェンバレン(東大教授)に宛てた手紙で、


古き日本の文明は、道徳面においては、西洋文明に物質面で遅れをとったその分だけ、西洋文明より進んでいたのだ


と指摘している。
ハーンを含め、明治以降に日本を訪れた外国人が、揃って憧憬と賞賛をこめて「日本人」の中に見た伝統・文明とは、つまるところ、徳川時代に確立された自律と自己犠牲と美しさを兼ね備えた意識――「道義」「良心」、節・義・廉・恥の教え――多くは儒教を骨格としていながら、その実、日本流にアレンジされたところの「武士道」であった


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明日につづきます。


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