2014年03月31日

日本と韓国を決定的に分けたもの(2)

昨日書いた記事、「日本と韓国を決定的に分けたもの」の続きを書こうと資料を読んでいたのですが、資料を読んでいるうちに、私がまとめる必要性を感じなくなり、また、私自身、資料を整理・記録しておきたいという思いに駆られましたので、引用文を記しておくことにします(^^;


以下は歴史学者の加来耕三さんが上梓した「時代に挑んだ男たち」という本の内容の一部になります。
あらためて読んでみて“懐かしさ”のような、哀愁のような、不思議な感慨につつまれましたので、その気持ちを忘れないように記録しておきます(何日か掛かるでしょう)。


ここから先は、ただの私の備忘録的なものになりますが、読むもよし、無視するもよし、考えるもよし・・・です。
日本人とは何か?」――古き良き、むかしのお話です。


――まぁ、記事にするということは多くの人に読んで欲しい内容ということなのですけどね(^^;――


*        *        *



「批孔」運動というのが、つい最近まで隣国の中国であった。
中国人の心骨を二千年もの間むしばんできた、儒教を否定しようというもので、一時は孔子の墓標まで破壊され、子供の遊びにすら孔子の首を刎ねるものがあったという。


この話を聞いて、不思議に思った日本人は少なくなかった筈だ。
日本では徳川時代に根を下ろした儒教は、明治維新後、近代国家の成立ともうまく噛み合い、渋沢栄一の「右手に算盤、左手に論語」といったような、今日の経済大国・日本への強力なバックボーンともなった。


ところが、本来の儒教は厄介なことに、その本質において、同血の秩序を倫理化したものである以上、「私」が「公」に優先するという原理をもっていた。
そのため長い間、中国やその優秀な儒教門下生であった朝鮮半島では、産業や技術など国家繁栄必須のものが育たず、極言すればそうした担当者の親類縁者によって喰いものにされ、枝葉ばかりか根まで枯れてしまうことも少なくなかった


当事者が正義漢に燃えて、汚職や不正を峻拒すれば、「私」を優先させなかったことでその人は没落しかねず、信じられないことだが、保身のために汚職をするといったことが、儒教的正義として半ば公然と行われてきたのである。


日本は“本家”のこの混乱を、徳川時代、すでに払拭していた。
たとえば、幕末の長州藩――。
薄禄の藩士・玉木文之進は、非役のとき、畑を耕作しながら甥の吉田寅次郎(吉田松陰)を畔道に坐らせ、農耕の合い間に漢学を教えた。


そうしたある日のこと。朗読中の寅次郎の頬に、一匹のハエがとまった。
寅次郎が思わず手で頬を掻いたところ、文之進は激怒し、寅次郎が失神するほどに殴りつけ、折檻を加えた。


文之進はいう。聖賢の書を読む行為は「公」であり、頬を掻くのは「私」の行為だ、と。
「公」の仕事をするおりに、「私」を思うのは許されない。
それを厳しく知らしめ、忘れさせぬためにも、肉体的苦痛を与えたというのである。


文之進のこの考え方は、些か潔癖すぎるきらいはあったが、当時の日本――幕府にも諸藩にも、これに近い意識はあった。
その証拠に明治維新後、「富国強兵」「殖産興業」を急ぐ新興日本は、国家が管理して資本主義を育成したが、巨大な資本が投下される産業において、隣国に見られたような政府高官による悪辣な汚職や、寄ってたかっての食い荒らしはおこなわれなかった。


このあたりの事情を、明治期、日本に滞在していたラフカディオ=ハーンは、友人のフューストン=チェンバレン(東大教授)に宛てた手紙で、


古き日本の文明は、道徳面においては、西洋文明に物質面で遅れをとったその分だけ、西洋文明より進んでいたのだ


と指摘している。
ハーンを含め、明治以降に日本を訪れた外国人が、揃って憧憬と賞賛をこめて「日本人」の中に見た伝統・文明とは、つまるところ、徳川時代に確立された自律と自己犠牲と美しさを兼ね備えた意識――「道義」「良心」、節・義・廉・恥の教え――多くは儒教を骨格としていながら、その実、日本流にアレンジされたところの「武士道」であった


*        *        *


明日につづきます。


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この記事へのコメント
紹介された歴史学者の加来耕三さんの意見には少し違和感があります。


>日本では徳川時代に根を下ろした儒教は、明治維新後、近代国家の成立ともうまく噛み合い、(中略)、今日の経済大国・日本への強力なバックボーンともなった。

>徳川時代に確立された自律と自己犠牲と美しさを兼ね備えた意識――「道義」「良心」、節・義・廉・恥の教え――多くは儒教を骨格としていながら、その実、日本流にアレンジされたところの「武士道」であった。


↑これを読むと、儒教(朱子学)を骨組みとした考え方が近代化に貢献したように受けとられますが、

実態は儒教(朱子学)によって、江戸幕府は
「商売は卑しいもの」
「公より私を優先」となってしまい、財政立て直しに失敗した江戸幕府は商売を取り入れ富裕した薩長らに負けて幕府は倒れます。

>自律と自己犠牲

これは武士道ですが、儒教ではありません。儒教をアレンジして武士道というのは無理があると感じました。儒教は公より私を優先して 親類縁者に利益を優先する考え方があります。
だから儒教を根付かせてしまった韓国はいまだに大統領が親類縁者に不当に利益を与えて捕まっているのではないでしょうか。

江戸幕府の失策とも言える鎖国政策も、開国は国を挙げての商売を意味していたからです。
しかし、黒船の来航によって現実を知り開国して富国強兵の必要性が明らかになりました。

「日本が儒教の呪縛から離れた事こそが」明治維新へと近代化に加速できた原因だと思います。
この辺りは井沢元彦さんの著書にも説明があり個人的に納得した解釈です。

しかし加来耕三さんは
「儒教は明治維新後の近代国家の成立とうまく噛み合い、今日の経済大国のバックボーン」と解説されてます。

でも儒教を取り入れた江戸幕府は儒教が要因で倒れ、儒教に固執した朝鮮は両班によって食い物されて庶民が苦しみ、明治維新など起こるはずもありませんでした。


ちなみに「武士道」を紹介した新渡戸稲造は植民地経営について教えていた人です。台湾の近代化に後藤新平と共に貢献した人物で、
植民学の教授としても教えていました。国力拡大の植民地経営は、儒教の「商売は卑しいという考え方や賎金思想」とは相容れないはずです。

後藤新平や新渡戸稲造は武士道精神をもって、植民地経営をしました。つまり圧政や搾取ではないやり方です。欧米の植民地政策とは違っていたのは有名な話ですよね。
Posted by 麦茶 at 2014年04月04日 20:38
コメントありがとうございます m(_ _)m

情報ありがとうございます。
勉強になります。

簡単に調べてみましたが武士道の経緯には諸説あるようですね。
wikiには、
「武士道には儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではない」
とした上で「儒教的態度が底流に流れているものが多い」とあります。
(まぁ所詮wikiですが・・)

なんだか日本の儒教は、
大陸の物と比較して一風かわっていたような感じを受けます。
古田博司教授もそのようなことを言っていたような・・。
維新志士には日本の儒学をすすんで学んだ人も多かったようです。

まぁ、この件に関して、さほど詳しいわけではなく、
語れるようなこともありません(^^;

情報ありがとうございました m(_ _)m
Posted by 美樹 at 2014年04月05日 20:21
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